大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 平成5年(ネ)1066号 判決 1994年10月20日

控訴人

佐野麻美子

控訴人

薗部仁彦

右両名訴訟代理人弁護士

児玉康夫

竹田真一郎

被控訴人

学校法人東京女子醫科大学

右代表者理事

吉岡博光

右訴訟代理人弁護士

松井宣

小川修

松井るり子

主文

一  原判決を取り消す。

二  被控訴人は、控訴人らに対し、それぞれ、金一四五四万円及びこれに対する昭和六二年一二月八日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

三  控訴人らのその余の請求を棄却する。

四  訴訟費用は、第一、二審を通じ、これを三分し、その二を控訴人らの負担とし、その余を被控訴人の負担とする。

五  本判決は、主文第二項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者が求めた裁判

一  控訴人ら

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人は、控訴人らに対し、それぞれ、金五六六四万九八四四円及びこれに対する昭和六二年一二月八日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は、第一、第二審とも、被控訴人の負担とする。

4  仮執行の宣言

二  被控訴人

本件控訴を棄却する。

第二  当事者の主張

当事者双方の主張は、原判決二枚目表末行の「薗部麻美子」を「佐野麻美子」に、同三枚目裏六行目「道」を「同」に、同四枚目裏五行目の「原告」を「控訴人ら」にそれぞれ改めるほか、原判決の「第二 当事者の主張」欄の記載のとおりであるので、これを引用する。

第三  証拠関係

原審及び当審の訴訟記録中の各書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

一  当事者等

請求原因1の事実は、当事者間に争いがない。

二  本件の経緯

1  請求原因2(一)及び(二)の事実は、蘇生措置が開始された時間及び施された期間を除き、当事者間に争いがない。

2  右争いのない事実と成立に争いのない甲第五、六号証、原本の存在及び成立に争いのない乙第一ないし第五号証、弁論の全趣旨により成立の認められる乙第一三ないし一五号証、第一七号証及び第三〇号証並びに原審における控訴人麻美子本人尋問の結果を総合すれば、次の事実が認められる。

(一)  和彦は、昭和六二年一一月七日、成人医学センターにおいて定期健康診断を受け、胃部X線検査の結果、高度の食道裂孔ヘルニアと診断され、内視鏡検査を受けるよう指示された(乙二)。

和彦は、昭和六一年一二月三日にも内視鏡検査を受け、食道裂孔ヘルニア、食道潰瘍痕跡、胃の穹窿部に腫瘤が認められていたが、右時点では異常なしと診断されており、また、昭和六二年五月二日の定期健康診断の際も胃部X線検査により食道裂孔ヘルニア、胃炎、球部の隆起性病変の疑いありと診断されていた。さらに、同年六月の結腸X線検査の結果では、上行・横行・下行結腸に憩室症が認められていた(乙一、二、四、五)。

また、和彦は、高血圧(昭和六一年五月一二日の検査時一〇〇〜一六〇、昭和六二年五月二日検査時九六〜一三四、同年一一月七日検査時一〇〇〜一五〇。昭和六二年になって、両眼の眼低に高血圧性変化、動脈硬化性変化が現われている。)のため治療が必要と診断され、高脂血症及び肥満症(肥満度昭和六二年二四パーセント)のため食事療法が必要であると指摘され、減食に努め、一部改善が見られていた。しかし、肺機能については、肺活量が著しく低下する傾向(昭和六一年五月検査時二四二〇cc、昭和六二年五月検査時一七三〇cc、同年一一月検査時一〇四〇cc)にあり、経過観察の必要が指摘されていた(乙一ないし四)。

なお、和彦は、一〇歳頃から気管支喘息に罹患し、三〇歳から三七歳頃までの海外勤務当時には、一旦鎮静化したものの、その後毎年秋頃には強い発作があり、一週間程度会社を休む状態にあり、本件受診当時も、喘息の薬を常時携帯している状態にあったし、自宅にも携帯用の酸素マスクを用意し、それを使用することもあった。また、同人は、死亡の一ケ月前頃には、階段の昇り降りにも苦しむほど咳込んでいたし、昭和六二年一一月二七日には、高熱(38.7℃)を伴なう気管支喘息発作の治療を受けるため、被控訴人の病院を訪れていた(乙三、四、控訴人麻美子)。

(二)  和彦は、当時特段健康上の不安を訴えることもなく、昭和六二年一二月七日朝も早くから起きて普段と変わらない様子であったが、当日は内視鏡検査のため、成人医学センターに徒歩で来院し、三輪医師(昭和五五年五月から同センターに勤務する消化器内科の専門医)によって、胃部の内視鏡検査を受けることとなった。同医師は、和彦のカルテ、一番新しい胃のレントゲン写真及び以前の内視鏡検査のファイル等の資料を検討したうえ、同人が高血圧であること、気管支喘息であること、以前に同センターにおいて内視鏡検査を受けていることを確認し、内視鏡検査前の視診と問診を看護婦に指示した(甲五、六、乙四、控訴人麻美子)。

(三)  そして、午前九時一〇分頃、同センターに勤務する臨床検査技師が和彦に対し、ガスコン一〇ccを飲み込ませ、さらにキシロカイン四パーセント溶液二〇cc(キシロカイン八〇〇ミリグラム相当)による漱いをさせた。同センターにおける漱いの指示は、五回ないし一〇回漱いをさせた後、口の中に残ったキシロカイン液を吐き出させるというものであった。

その後、和彦は、午前九時二〇分頃、硫酸アトロピン一アンプル、ブスコパン一アンプルの筋肉注射を受け、同九時三〇分頃、臨床検査技師の指示のもと、キシロカイン・ビスカス(二パーセントキシロカイン)五cc(キシロカイン一〇〇グラム相当)を服用したまま、内視鏡検査台に横臥していた(胃の内視鏡検査に先立ち、咽頭麻酔の方法として、キシロカイン四パーセント溶液二〇ccで漱いをさせ、その後キシロカイン・ビスカス五ccを含んだままベットに横臥するという方法は、被控訴人の病院においては、昭和五六年から行われ、既に一万件以上その方式によっているが、本件以外の事故発生はなかった。また、和彦も、前年の内視鏡検査の際には、同じ咽頭麻酔を受けたが、特段の異常な症状はなかった。)。

続いて、三輪医師は、検査時にルゴール使用の可能性があったため、和彦に対し、ヨードアレルギーの有無を問診し、同人からアレルギーのないことを告げられたので、同人を左側臥位にさせて内視鏡視度を調整した後、内視鏡を挿入しようとしたところ、同人が半ば開口して鼾をかき始め、「薗部さん」との呼びかけに対し、何か声を出して返事するが、はっきりした言葉は発せられなかった(甲五、六、乙四、五、一三ないし一五、三〇)。

(四)  三輪医師は、和彦の橈骨の動脈に触れたところ、脈拍を正確に数える余裕はなかったものの、八〇以上の頻脈と感じ、血圧を測定すると一〇〇をやや超える程度であった。

三輪医師は、和彦に異常が発生したものと判断し、内視鏡検査室の隣にある回復室に運び、点滴路を確保し、ポタコールR五〇〇ミリリットル、ソルコーテフ一〇〇〇ミリグラム、ソルコーテフ一二〇〇ミリグラムを静脈注射した。

同回復室には、順次数人の医師も駆け付け、午前九時四〇分頃には、数人の医師で手分けして、酸素八リットルを吸入させ、エアウェイを挿入して舌が喉の奥に落ち込むのを防いで気道を確保し、昇圧剤ネオフィリン一アンプル等を投与したが、全身性の痙攣が発生したため、ボスミン二アンプル、塩化カルシウム二アンプル、メイロン二アンプルを血管注射等をした(甲五、六、乙四、五)。

(五)  しかし、午前九時五〇分頃、和彦の呼吸が停止するとほぼ同時に心臓も停止した。和彦の自発呼吸が止まったので、そこにいた三輪ほか数人の医師は、アンビューバックでの強制呼吸をしながら、気管内にチューブを挿入して肺の中に酸素が送り込まれるようにし、また、心臓マッサージを開始し、塩化カルシウム二アンプル、メイロン二アンプル、ボスミン二アンプルを静脈注射した。

その間にも人工呼吸は続けられており、午前一〇時頃には、直流除細動をかけたが、反応は見られなかった。

午前一〇時一五分頃には、ボスミン二アンプルを心腔内に注射し、ソルコーテフ二〇〇ミリグラムを血管注射した。同三〇分頃には、塩化カルシウム二アンプル、ノルアド二アンプルを血管注射し、再度直流除細動をかけたが、やはり反応は見られなかった。さらに、ボスミン一アンプルを心腔内に注射し、メイロン二五〇ミリリットルを側管から血管注射した。同三五分頃には、ノルアド二アンプルを血管注射し、ソルコーテフ一グラム(うち、二分の一は血管注射)を投与した。同四五分頃には、カルニゲン一〇アンプルを投与し、直流除細動をかけた。

午前一一時一五分頃にはボスミン一アンプルを心腔内に、同二〇分頃にはソルコーテフ一グラムを血管に、それぞれ注射し、同三〇分頃にはボスミン一アンプルを投与した。さらに、同四〇分頃には心臓マッサージ等の心肺蘇生法を続行し、点滴ポタコールを五パーセントブドウ糖二五〇ミリリットルに変更し、また、メイロン二五〇ミリリットルを側管から注入した。

右のような直流除細動を何回か繰り返したところ、不安定ではあるが心臓の心室性のリズムが現れた。そこで、蘇生措置を行っていた数人の医師の判断で、和彦を被控訴人の救急センターに運ぶことを決定し、心電図測定装置を取り外して、午前一一時四五分頃、心肺蘇生法を続行したまま救急車で右救急センターに搬送した(甲五、六、乙四、五、三〇)。

(六)  午後〇時一五分頃、右救急センターにおいて、和彦に対し、ボスミンを心腔内に注射したところ、心電図上に心電図波形が出現したが、実際の心搏動、脈拍は認められず、心電図上の波形も二、三分で消失し、その後心肺蘇生術を施行しても蘇生せず、午後一時一〇分和彦の死亡が確認された。和彦死亡の直接死因について、被控訴人の東京女子医大病院第二外科の鈴木医師は、急性心不全であると診断している(甲五、六、乙四、五、一七)。

以上の事実が認められる。

三  死亡の原因及び被控訴人の賠償責任の有無

1(一)  和彦の死亡原因について、控訴人らは、キシロカインの過剰投与による局所麻酔中毒であり、他に死亡原因はない旨主張し、被控訴人は、右主張を否定したうえ、和彦の死亡原因を確定的に明らかにすることは不能であると反論している。

(二)  和彦は、前記認定の経過を辿って死亡するに至っているが、前掲乙第五号証によれば、次の事実が認められる。

(1) 三輪医師及び鈴木医師は、急性心不全による死亡と診断したが、和彦死亡直後の臨床上直接死因として、不整脈死、薬剤等によるショック死、心筋梗塞、脳卒中等の可能性を推定したものの、いずれとも判断できなかったとして、被控訴人の病理学教室に解剖を依頼した。

(2) 豊田医師及び梶田医師による解剖の結果によると、①急性肺滲出(両肺の浮腫と出血、細気管支内腔の粘液栓)、②軽度の肺気腫、③高血圧性変化(左心室の肥大、腎・膵・副腎周囲に認められる細動脈硬化症)、④腎糸球体の散在性瘢痕化(動脈・細動脈硬化症)、細尿管の拡張傾向、⑤肝の脂肪化、⑥軽度の脳腫脹、⑦大動脈・冠動脈・脳動脈等の中程度の硬化、⑧腸間膜・腎周囲・骨盤脂肪織の増加、⑨一コの副腎、⑩気管・小腸(一部)粘膜の出血が認められた。

(3) この結果に基づき、両医師は、基礎的な身体条件として、①高血圧性変化(心肥大、臓器内細動脈の硬化)、②動脈硬化、③慢性肺変化(軽度ながら認められる肺気腫、細気管支炎)が認められるがこれらはいずれも臓器不全を来たすほど高度のものでないと診断し、また、脳には少なくとも肉眼的には出血、梗塞など破壊的な病変は認められず、腎臓にはネフロンの若干の荒廃にもかかわらず重量を増しているが、それはショック性の細尿管の拡張が主な原因と思われると診断し、急性の変化として著名なものは肺浮腫・出血、細気管支内の粘液性栓の存在であり、これらにより呼吸不全を示唆するに十分であると診断した。さらに死亡に至る経過から、アレルギーあるいは神経循環性な急激な変化が発症の引金になったと想定することが自然であり、引金となった要因を特定することは不可能であるが、異常な反応が肺毛細血管の透過性の亢進、気管支腺の過分泌などを中心に進行したものと推定する旨の診断をした。その後、脳について組織学的検査をしたところ、クモ膜下腔小動脈に軽度の硬化、髄質の巣状浮腫が認められたが、神経節細胞の形態には生理的範囲を超えた変化はないと診断した。

以上の事実が認められる。

(三)  そこで、検討を進めるに、成立に争いのない甲第四号証、第七ないし第一〇号証、乙第一六号証、第一八ないし第二〇号証、原本の存在及び成立に争いのない乙第六号証、第八ないし第一〇号証、原審における証人水口公信の証言により成立の認められる甲第一三号証及びその証言、原審における証人高橋敬蔵の証言、原審及び当審における鑑定の結果、当審における証人森川定雄の証言によれば、次の事実が認められる。乙第一六号証中の、口腔、咽頭からの吸収が遅いとの記載部分は、甲第四号証の記述、当審における証人森川の証言に照らし、信用できない。

(1) キシロカイン四パーセント溶液の効能書によれば、基準として説明されている用量(通常成人)は八〇から二〇〇ミリグラムであり、また、キシロカイン・ビスカスの効能書によれば右用量(通常成人)は一〇〇から三〇〇ミリグラムである。そして、前者は、気管支鏡検査等のため倍量に希釈し、その適量(一〇ミリリットル)を噴霧して使用したり、綿棒に付けて塗布したりすることが予定されており、また、後者は、劇薬、指定医薬品であるが、内視鏡検査のため咽喉頭、食道部等の麻酔に用いられ、口に含んで用いられることが予定されている。両者とも、塩酸リドカインを含有する表面麻酔剤であるが、稀にショック様症状を起こすことがあるとして、投与の際に、患者の全身状態の観察を十分に行ない、できるだけ薄い濃度のものを用い、できるだけ必要最小量にとどめるべきこととの使用上の注意がなされている。また、キシロカイン溶液による漱いや、スプレーによる噴霧では過剰投与になりがちなので注意を要するとの指摘もされていた(甲四、七、八、乙八、九、原審及び当審での鑑定の結果)。

局所麻酔剤としてキシロカイン四パーセント溶液を使用する場合に、単に咽頭に含ませるだけでなく、漱いをさせる方法によっている例は、稀なことではなく、この場合には、五ないし一〇ccをそのまま使用して、あるいは同溶液二〇ccを水一〇ccと混ぜて漱いをさせ、さらに食道入口部に八パーセントキシロカインスプレーを噴霧することと併用する例が学界で紹介されている(乙七、一八、原審での鑑定の結果)。

(2) 局所麻酔中毒は、局所麻酔薬の血中濃度が高まることによって生じることが臨床上最も多いものの、患者の身体状況によっては、血中濃度が余り高くなくても発生することが知られている。噴霧等の表面麻酔の場合には、最高血中濃度に達するのは、噴霧後五ないし三〇分後であるのが通常である(甲四、一三、乙六、一六、原審及び当審での鑑定の結果、証人水口)。

口腔、上気道等血管に富む部位からの吸入は非常に早く、皮下注射による場合や、緩徐静脈注射による場合より早く高濃度に達することから、これらの部位での使用の場合には、基準最高量より減量して用いるか、吸引を繰り返しながら用いるべきとの指摘もされている(甲四、乙六、証人水口)。

また、キシロカインは、肝臓で代謝されるので、血中濃度は高まりにくい半面、大量に吸収されたり、肝機能が低下している場合等には、局所血管拡張作用を有するので、他の局所麻酔剤より血中濃度が高くなり易いことは、外科医にとっては、常識となっている(甲四、一三、乙一六)。

(3) 局所麻酔中毒の症状が発生する時期としては、血管内投与により秒単位で起こる速発型、五ないし三〇分後に起きる遅発型、何回も吸入して蓄積したことによる数時間後に発生する蓄積型に分けられるが、これまでの実例では、五分以内に起きる例が六割以上であり、しかも、表面麻酔の場合には、五分以内に発生したものが約八割であるとの紹介もされている。

しかし、使用量と発生時期との関連性は認められていない(甲四)。

(4) 局所麻酔中毒の主要症状は、①痙攣、昂奮、傾眠、めまい、酩酊様、震え、筋の引つり等の中枢神経症状、②呼吸困難、チアノーゼ等の呼吸系症状、③悪心、謳吐等の消化器系症状、④低血圧、冷汗等の循環系症状、⑤不整脈、高血圧、頭痛等のエビネフリンによる中毒症状等であり、これまでの実例では、中枢神経系症状が一番多く、次いで呼吸器系症状が多く、この中でも、呼吸器系症状は、粘膜表面麻酔時に多かったと報告されている(甲四)。

ところで、局所麻酔中毒は、局所麻酔剤が血液・脳関門を通過して、脳実質や脳脊髄液に移行して、種々の中枢神経系の刺激症状(震え、多弁、亢奮)が現われ、さらに痙攣、錯乱を起こす。しかし、逆に、中枢の抑制症状(嗜眠、反応性の低下、酩酊様、視力・聴力障害、舌のもつれ、眩暈等)となることもあるが、後者の場合も、症状が強くなると、前者の症状が現われ、さらに中毒量が多くなると、意識喪失、昏睡、呼吸抑制、呼吸停止などの後者の症状となる。このような症状が発生するのは、局所麻酔剤が少量の場合には、大脳皮質の抑制シナップスを選択的に抑制することにより刺激的症状が発現し、大量となると大脳皮質全体を抑制するため抑制症状が現れるものと考えられている(甲四、一三、乙一〇、一六、原審及び当審での鑑定の結果)。

また、局所麻酔中毒による呼吸器系症状は、初期には呼吸数の増加、換気量の増加が見られるが、痙攣発作の発現とともに停止し、循環器系症状も、初期には脈拍数増加、血圧上昇、心拍出量の増加が見られ、続いて低血圧、徐脈、心室細動や心停止に移行する。これら初期の呼吸器系や循環器系の刺激症状は、中枢を介するもので、局所麻酔中毒の直接作用によるものではなく、また、軽度ないし中程度の中毒症から重症への移行には痙攣発作が大きな影響を与えているが、直接の死因は、呼吸や循環の抑制によるもので、痙攣発作が直接の死因となるものではないといわれている。

呼吸停止、心停止の症状が出るのは、痙攣発作が発現する場合の約三ないし四倍の血中濃度の場合であると指摘する学者もある(甲一三、乙一〇、一六)。

(5) キシロカインによって全身症状型アレルギー性反応(アナフィラキシー・ショック)の発生もあるが、この場合には、極少量で、短時間のうちに循環器・呼吸器系の虚脱状態を起こす。この反応は、速発型の場合には、喉や胸部の絞扼感、顔面の腫脹等が特徴であり、遅発型の場合には、投与部位の腫脹、皮膚の発疹・発赤、じん麻疹、関節痛、掻痒感が多く出て来る。この症状になると、喘息発作、チアノーゼ、酸素欠乏が急激に起きるから、患者は苦悶状態となる。重症となると、気管支痙攣、全身性の浮腫(特に、喉頭部浮腫に起因する気管支狭窄と窒息)、低血圧、意識障害をもたらす。一般に局所麻酔剤による過敏反応は、遅発型であり、速発型のアナフィラキシー・ショックは、少ないとされている。これによる死亡後の解剖所見では、①肉眼及び顕微鏡検査で認められる下気道の閉鎖の結果生じたと思われる急性肺気腫、②下咽喉、喉頭蓋、上気道の浮腫、喉頭部浮腫に起因する気管狭窄が見られることが多いが、有意の所見がない場合もある。人死亡の場合には、上気道の浮腫が顕著だといわれている(甲一三、乙一〇、一六、一九、原審での鑑定の結果、証人水口、証人森川)。

(6) そして、局所麻酔中毒による死亡の原因としては、①痙攣→呼吸不全→心停止、②低血圧→脳の循環不全・低酸素症→呼吸停止→心停止、③意識障害・謳吐→窒息、④直接の心筋抑制→心停止、⑤アナフィラキシー性ショックによる死亡等が考えられるが、この中では、①が最も多いとされている(甲四)。

以上の事実が認められる。

2(一)  キシロカイン中毒は、一定量以上のキシロカインが吸収され、その血中濃度が高まり、大脳に影響を与え、刺激症状や、抑制症状を起こさせ、意識障害、痙攣を経て、重篤となる場合には、呼吸停止、心停止に至り死亡することになること、しかし、患者の身体状況によっては、血中濃度が余り高くなくても中毒症状が出ることがあること、キシロカインによる表面麻酔の場合には、症状は投与後五分以内に発生することが多いが、最高血中濃度に達するのは、投与後五ないし三〇分後であるのが通常であること、口腔、上気道等血管に富む部位からの吸収は早いから、これらの部位での使用の場合には、使用量に注意したり、使用方法に注意を要するとの指摘もされていたことは、三、1、(三)の(2)ないし(4)において認定したとおりである。

また、大量のキシロカインの投与があると中毒症状が発生する可能性があるため、通常成人の場合でも、キシロカイン四パーセント溶液で八〇から二〇〇ミリグラム、キシロカイン・ビスカスで一〇〇ないし三〇〇ミリグラムが基準量とされていること、キシロカイン・ビスカスは口に含んで用いるが、キシロカイン四パーセント溶液は薄めて噴霧したり、綿棒に付けて塗布する用法が予定されているが、漱いによる表面麻酔をしている医療機関もあることは、三、1、(三)の(1)において認定したとおりである。

(二)  ところで、被控訴人の成人医学センターでは、胃内視鏡検査のための咽頭麻酔のため、キシロカイン四パーセント溶液二〇cc(キシロカイン八〇〇ミリグラム相当)による漱いをさせた後、キシロカイン・ビスカス五cc(キシロカイン一〇〇グラム相当)を口に含ませる方法を昭和五六年から実施しており、これまで一万件以上の件数の胃内視鏡検査の際にそのような局所麻酔方法を採用してきたが、本件以外に麻酔中毒事故が発生していなかったこと、和彦も、前年にも、同様な麻酔方法による胃内視鏡検査を受けているが、その際には、特段の異常はなかったこと、本件事故の際にも、同様な方法でキシロカインが和彦に投与されたことは、二、2の(三)において認定したとおりである。

(三)  そして、二、2の(三)ないし(五)において認定した経緯によれば、和彦は、キシロカイン四パーセント溶液での漱いの約一〇ないし二〇分後、キシロカイン・ビスカスを口に含んで横臥していたところ、意識の低下、鼾をかき始め、二〇ないし三〇分後には全身性の痙攣が始まり、その一〇分後には呼吸停止、心停止となったというのであるから、本件では、キシロカインによる中毒がまず疑われる。特に、本件咽頭麻酔に使用されたキシロカインの量が基準量を大幅に超えているから、その可能性は高い。

ところで、和彦の症状の経過は、鼾、発言のもつれ(意識の低下)、頻脈、全身性の痙攣を経て、呼吸停止、心停止に至っている。

これに対し、三、1の(三)(4)において認定したように、局所麻酔中毒の場合には、中枢神経系の震え、多弁、亢奮等の刺激症状が先に出現し、痙攣、錯乱を経て、意識喪失、呼吸停止に至ることが多いものの、局所麻酔中毒の症状の発現は多様であり、反応力の低下、嗜眠等の中枢神経系の抑制症状から先に出現することもあるので、和彦の症状も、局所麻酔中毒の典型的症状に合致している。

(四)  しかし、(二)で述べたように、被控訴人では、これまで同じ方法での咽頭麻酔をしていたが、事故発生の経験がなかったこと及び和彦についても、前年の検査の際には異常な症状とはなっていなかったことからすると、別の原因も疑われる。三、1の(二)(1)において認定したように、三輪医師らは、和彦が急性心不全で死亡したものと診断し、臨床上の直接死因として、薬剤等によるショック死のほか、不整脈死、心筋梗塞、脳卒中等の可能性を推定したものの、特定できないと判断していた。

そこで、他の原因の有無に関して、以下、判断する。

(1) まず、脳卒中であるが、三、1の(二)(3)において認定したとおり、解剖の結果によると、脳には肉眼的に出血、梗塞等の病変は見られず、組織学的検査の結果でも、動脈の硬化等の症状が見られたものの、神経節細胞の形態に生理的範囲を超えた変化しなかったのであるから、脳卒中の可能性はない。

(2) 心筋梗塞も、症状の発現の経過に照らし、可能性は少ない。

(3) 和彦について高血圧、動脈硬化があると過去の健康診断時から指摘されていたことは、二、2の(一)において認定したとおりであり、解剖の結果でも、高血圧性変化(心肥大、臓器内細動脈の硬化)、動脈硬化が認められたものの、いずれも臓器不全を来たすほどの変化ではないと判断されており、高血圧に基づく直接死因は可能性が少ない。

(4) 局所麻酔中毒の症状としては、アレルギー反応(アナフィラキシー・ショック)もあるが、その場合の症状は、三、1の(三)(5)において認定したとおりであるところ、和彦には、アレルギー反応に伴なうことが多い、発疹や、喉頭部浮腫の症状の発現がなかったこと、和彦が前年の同じ検査の際にはアレルギー反応を起こしていないことから、和彦の死亡がアレルギー反応(アナフィラキシー・ショック)によるものである可能性は少ない。

(5) ところで、和彦は、気管支喘息の持病を持ち、毎年秋には、強い発作があり、一週間程度出勤できない症状となること、しかも、常時喘息の薬を携帯し、自宅には携帯用の酸素マスクを用意する症状にあったこと、死亡の一ケ月前には階段の昇り降りにも苦労するほど咳込んでいたこと、和彦が、死亡の一〇日前は、高熱を伴なう気管支喘息発作の治療を受けたことは、二、2の(一)において認定しているとおりである。

しかも、解剖の結果よれば、両肺の浮腫と出血、細気管支内腔の粘液栓が認められ、これによると喘息の発作による呼吸停止の可能性も疑われる。

しかし、和彦の治療に携わった医師らは、誰も、喘息発作特有の呼吸パターン(喘鳴)を目撃していないし、死因として喘息を疑ってもいなかったことからすると、和彦が喘息発作を起こしていた可能性は低い。

しかも、成立に争いのない乙第二四ないし第二九号証、原審における鑑定、原審における証人水口公信の証言、当審における証人森川定雄の証言によれば、気管支喘息発作による死亡の場合には、病理的所見として、気管支痙攣像(気管支基底膜の肥厚、平滑筋の増生肥大・収縮、粘膜の規則的ひだ状隆起、内腔の狭窄)、気管支粘膜産生亢進像(気管支腺の肥大、杯細胞の腫大・増殖、粘液栓、上皮の剥離脱落)、肺過膨脹、好酸球浸潤等が見られ、杯細胞の増加、上皮の増殖、剥離脱落が粘液栓の形成を助長し、気道閉塞の原因となること、気管支喘息発作による死亡の場合には、粘液は、単に細気管支だけでなく、気管支、さらには気管まで及ぶことが多いこと、喘息発作死亡の場合にも、急変して死亡までの時間が短いときは、過膨脹肺の所見が見られないことがあること、喘息死亡には、肺性心、肝硬変、肺炎等との合併症による発作を伴なわない死亡もあり、この場合には、軽度、中程度の喘息でも死亡する例があるし、粘液充填の所見が認められないことがあることが認められるところ、和彦の解剖所見では、肺炎、肝硬変等他の原因を推測される所見はないし、気管支痙攣像の所見もなく、粘液も気管支や、気管まで及んでいたとの所見もないことからすると、和彦の死亡が、気管支喘息発作による死亡であると認定することは困難である。

確かに、右に述べたように、和彦の解剖所見では、両肺の浮腫と出血、細気管支内腔の粘液栓の存在が認められているが、当審における鑑定及び当審における証人森川定雄の証言によれば、急性肺滲出、両肺の浮腫・出血は急死の場合には見られる所見であり、また、細気管支内の粘液栓は、長年気管支喘息を患っている患者が他の原因で死亡した場合にも見られる所見であることが認められるから、和彦にそのような解剖所見があったとしても、喘息発作死と認めるには不十分である。

(五)  局所麻酔剤が大量に投与された場合には、中毒症状が発現し、重篤な症状の場合には死亡に至ることがあることは前記認定のとおりであるところ、本件では、基準量である二〇〇ないし三〇〇ミリグラムを大幅に超えて総計九〇〇ミリグラムのキシロカインが投与されており、しかも、和彦の死亡に至る症状も、局所麻酔中毒を窺わせるものである。

ところで、キシロカイン四パーセント溶液による漱いの方法による咽頭麻酔をする方法を採用している医療機関が稀でないことは、三、1の(三)(1)において認定したとおりであり、被控訴人だけが特異な使用方法を用いたものとは言えない。そして、この漱いの方法の場合には、使用されたキシロカインが全部吸収されるものでないことは容易に推測されるところである。

しかし、漱いの方法による場合でも、その量及び患者の咽頭粘膜の状況によっては、予測以上に大量のキシロカインが吸収されることも推測されるところ、当審における鑑定及び当審における証人森川定雄の証言によれば、充血している粘膜から局所麻酔剤の吸収は、健康な場合に比較して早いことが認められる。そして、和彦は、長年にわたり気管支喘息を患っており、その程度も常時喘息の薬を携帯するほどであり、しかも、本件受診の一ケ月以内にも発作を起こしていたというのであるから、そのような喘息の結果、咽頭粘膜が健康な状態になかったことも推測される。また、前掲乙第三号証によれば、和彦は、二十年以上にわたって喫煙歴があり、本件当時も、毎日一〇ないし二〇本の紙巻き煙草を吸っていたし、外での飲酒も多少あったことが認められるから、このような喫煙歴等により、喫煙しない者、飲酒しない者に比べ、咽頭部分や、口腔内部分の粘膜が充血している可能性もあった。そうすると、和彦については、他の患者に比し、粘膜の充血により、予測以上にキシロカインの吸収が早かった可能性がある。

(六) 以上の諸事情、特に基準量を著しく超えるキシロカインが投与されていること、他の死亡原因の可能性がいずれも低いこと等を総合すると、本件では、和彦に大量のキシロカインが投与され、それが和彦の当時の身体条件により、キシロカインが一時に、しかも大量に吸収されて、中枢神経に影響を与えた結果、和彦が死亡したものと推認するのが相当である。

確かに、被控訴人は、和彦についても、被控訴人における胃内視鏡検査のための咽頭麻酔の方法として、これまで長年実施してきた方法を用いたにすぎず、また、そのような方法によっても、これまで事故の発生をしたことはなかったし、前年の検査の際には、和彦に特段の異常も出ていなかったのであるから、長年に亘る気管支喘息罹患、高血圧、動脈硬化、肺機能の著しい低下(二、2の(一))等の当時の和彦の健康状態が死亡という重大な結果発生に影響を与えたことも否定できない。すなわち、右のような和彦の当時の身体的素因も症状の発現及び回復の妨げに影響を与えたものと推認することが相当である。

このように、患者の身体的素因も死亡という結果発生に影響を与えている場合でも、本件のような大量のキシロカイン投与の事案にあっては、キシロカインの投与と死亡との因果関係を肯定することが相当である。

しかも、和彦の右に述べたような身体的素因は、特段珍しいものではなく、通常よくある健康状態であるから、そのような身体的素因の存在によって因果関係の存在を否定することはできない。

3 被控訴人においては、胃内視鏡検査の咽頭麻酔の方法として、基準量を大幅に超えるキシロカインを投与していたのであるから、局所麻酔中毒の発生があり得ることを予測し、症状の発生の有無に常に注意を払い、症状の発生した場合には、即時に対応できる処理体制を準備しておく義務があったと認められる。

確かに、アレルギー反応の場合や、患者の特異な健康状態のために予想外の結果発生の場合もあるため、すべての麻酔中毒の発生を防ぐことは困難であるが、基準量を著しく超えて局所麻酔剤を使用する場合には、麻酔中毒発生の可能性が高まっているのであるから、例えば、キシロカイン四パーセントを用いて漱いをさせる場合でも、他の医療機関で行われているように、投与の量を少なくするか、水で希釈して用いるべきであり、従前の方法による場合でも、漱いに時間をかけて一時に吸収されない工夫をすべきであり、さらに、ビスカスの投与の必要性、その使用時期について注意すべき義務があったというべきであるし、従前からの方法を踏襲するのであれば、事故発生の危険が極めて高いのであるから、患者の身体状況の変化に即応できる臨床体制を準備しておく義務があった。本件では、症状発現後、所要の回復措置が採られたことは、二、2の(四)ないし(六)において認定したとおりであるが、事故発生に対する処理体制が完全であったとは認められないところである。

してみると、本件の和彦死亡の結果については、被控訴人の被用者に過失があったと言わざるを得ず、被控訴人は、使用者として、和彦死亡による損害を賠償する義務がある。

四  賠償すべき損害額

1  和彦死亡による損害

(一)  逸失利益

原審における控訴人佐野麻美子本人尋問の結果及びそれにより成立の認められる甲第二、第三号証によれば、和彦は、昭和二七年に東京大学を卒業し、昭和六二年に株式会社丸紅の運輸保険本部長(取締役)を退任し、株式会社丸紅保険センターの代表取締役に就任しており、間もなく満六〇歳になるところであったこと、同人の昭和六二年一二月七日までの年間税込収入は一〇七三万五〇〇〇円であったこと(それを年間に直すと、計算上、一一四九万〇五四二円となること)、昭和六二年一二月当時、和彦は、主婦である妻智子及び大学生であった控訴人らと同居し、和彦の収入により生計を維持していたこと、妻智子は、平成元年秋頃から胃癌の診断を受けて治療中であったが、平成三年二月九日死亡したことが認められる。そして、二、2の(一)に認定したような和彦の健康状態及び経歴を考慮すると、本件事故により死亡していなければ、今後少なくとも五年間は、現在の収入を得ることができたものと推認される。

これによると、和彦の死亡による死亡時の逸失利益は、次のとおり二九八四万八二九一円と算出される。

1149万0542円×0.6(生活費控除)×4.3294(五年のライプニッツ係数)=2984万8291円

(二)  慰謝料

和彦死亡による精神的苦痛を慰謝するには、二二〇〇万円を要するものと認めるのが相当である。

(三)  葬儀費用

弁論の全趣旨によれば、智子は、和彦死亡の葬儀費用として一〇〇万円以上を支出したことが認められるところ、一〇〇万円の支出は死亡に伴なう相当因果関係のある損害と認めるのが相当である。

2  和彦の身体的素因による相殺

三、2の(六)において判断したように、和彦の死亡は、キシロカイン中毒によるものと認めるのが相当であるが、症状の発現及び回復ができなかったことについては、当時の和彦の身体的素因が影響を与えていると認められるので、死亡の結果生じた損害全部を被控訴人に負わせることは相当でない。

そこで、民法七二二条二項の規定の類推適用により、本件で現われた諸事情を斟酌して、被控訴人が負担すべき損害は、和彦死亡による損害のうち、二六四三万円に制限されるものと認めるのが相当である。

そして、控訴人らが和彦及び智子の相続人であるから、その損害賠償請求権は、控訴人らに属する。

3 弁護士費用

本件の諸事情に鑑みると、和彦死亡に伴なう弁護士費用として、相当因果関係にあるのは、二六五万円に限るのが相当である。

五  結論

よって、被控訴人は、控訴人らに対し、それぞれ、一四五四万円及びそれに対する損害発生の日の昭和六二年一二月八日から支払済みに至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払義務があるので、控訴人の請求を棄却した原判決を取り消し、控訴人らの請求を右限度で認容し、その余を棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟九六条、八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言について同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 越山安久 裁判官 田中康久 裁判官 髙橋勝男)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例